2016/03/01ツイートのまとめ(加筆と修正含む)

バイクは僕を遠くに連れて行ってくれる。
その価値観が変わらなかったから、僕はバイクに乗リ続けて来た。
免許を取ってから20年とちょっと、実際バイクは僕を遠くに連れて行ってくれた。バイクが縁で沢山の友人が出来た。彼らに会うために走ったし、彼らと会ってもまた走った。
20年と少しの間にいろいろな経験をした。友人が死んだり、バイクでコケて怪我をしたり、ガラクタみたいなのを直して初めてエンジンが掛かった瞬間に感動したり、真夏は暑いので夜中走ったり、高速でパンクしたり、焼き付いたり、旧車に乗り始めたり、とにかくいろいろ。
でも根っこの部分に「バイクは僕を遠くに連れて行ってくれる」という価値観が常にあったから、乗ってるバイクが変わってもやる事は変わらなかった。遠くに行く。それは物理的な距離だったり、知らなかった事を知るキッカケだったり、新しい友人との出会いだったり。そうやって僕はいつも遠くに行けた。
バイクさえ持っていれば、僕はそれですぐに遠くに行く事が出来る。
何があっても、少々のお金と時間を確保すれば僕は自由だ。バイクに鍵を差して出かければいい。幸い、僕の住む街は山からも海からも近いし、遠くまで走ろうと思ったってそんなに苦じゃない。京都や大阪、東京にも行ける。

バイクは機械だから維持するために整備調整するのは必然。中でも特に古いバイクは維持管理を日常的に行う事が求められていて、そのために僕は機会があれば工具や部品を買い揃え、僕のバイクがいつでも「僕を遠くに連れて行ってくれる」ように維持していける状態を作ることに割と熱心だった。その結果、僕は自分のバイク維持に付いて心配しないで良い程度には工具と知識と経験を身に付ける事が出来たと思ってる。実際、今乗っているJAWAの復活にはバイク屋さんの手を煩わせる事なく、登録までやり切れた。
というか、実はもう十年以上前からバイク屋さんは利用した事がないのだけど。

でも、生活が変わり、人生の目標が変わり、色々していく中でふと思った。
「バイク維持のために自分が動けなくなってる」
気が付くとガレージには工具や予備部品が山と積まれ、修理中のバイクが鎮座している。僕を遠くに連れて行ってくれるはずのバイクが、僕を今の場所に縛り付ける鎖みたいに見えた。
言い方を変えると「自分のバイクをいじって、自分だけが遠くに行く」という今までのやり方では、自分の気持ちが目指す「遠く」に届かなくなって来た事に薄々気付いているにも関わらず、ガレージは今までのやり方を維持するための物で一杯になっている。

僕は考えた。
今まで何の疑問もなくバイクに乗り続けて来たけれど、本当は何がしたいんだろう、と。
「バイクに乗りたい」のか、「遠くに行きたい」のか。

もちろんバイクは好きだ。
あんなに不完全で最高な乗り物は私が乗れる物の中では他にない。ずっと乗り続けていられたら最高だろう。でもきっと、今の僕は、以前よりもっと、ずっと遠くに行きたいと思っている。そしてその「遠く」は、実際にバイクに乗って行ける場所を遥かに超えてしまっている。もし仮に自分が乗るバイクでその「遠く」に行けたとしても、それには時間が掛かりすぎる。
誰の人生も時間には限りがある。僕の人生もいつか終わる。
それまでの間に、僕が目指した「遠く」まで行こうと思ったら、自分がバイクに乗る事だけにこだわり過ぎてはいけないんじゃないか。バイクに関わる事が好きだから、自分が乗る事から外れることで、むしろ入っていける場所、進んでいける遠い場所があるんじゃないか。そんな事も考えるようになった。
そうまでして僕は「遠く」に行きたいと思ってるんだ。

その「遠く」は、僕にとって遠いというだけで、実は物理的な距離ではなかったりする。
例えばジャンルを超えた走行会だったり、新旧内外問わないで集まれるイベントの開催だったり、そういう新しいカタチの遊び方を提案「する側」になりたい、という事は、そんな「遠い場所」の一つ。
先に挙げた様に、僕は過去に色々な方の主催するイベントで遊ばせてもらったので、今度は自分もその経験を活かして遊び場を作る側に回りたい、という気持ちを持っている。もちろん僕1人の力でそんな事が出来るとは思ってないし、今の私は、ただ何か少しでも力になれたら良いな、と思う事位しか出来ないのだけど。
僕はバイクに関わる事が本業ではないので、あくまで趣味の一環としてしか関わっていないのだけど、さすがに本業ではない事をいくつも掛け持ちできる程ではないので、「自分がバイクに乗る」事がメインだった今までから、方向を少し変えて行こう、と思っている。
それが僕なりの「バイクで遠くに行く」ということの新しいカタチなのかもしれない。