目的の違いって案外大問題だ

劇中に海外の軍人や軍隊を元ネタにするキャラクターやメカが登場するアニメが人気になって以降、その影響で語学を学び始めました、という人が増えた(気がする)。その証左に「◯◯(多くはアニメ)の影響で外国語を学んでいます!」という自己紹介をツイッターなどでたまに見かけるようになった。
たまに私と同じ言語を学ぶ人を見つけるので、もしかしたらお互いに有意義な情報が交換できるかもしれない、と思って働きかけてみたものの、結局話が通じなくて交流を諦める、という経験を何度か実際にした。
何がどうとは明確に言えないのだけど何かが決定的に噛み合わなくて、それは一体なぜなのだろうとずっと頭のすみっこで捏ねながら生きてきたのだけど、ここ数日、ブラブラ考えていたら何となく答えが見えたような気がした。

それは「目的の違い」ではなかろうかと思う。
私はその言語を使えるようになり、コミュニケーション出来る人を増やし、幅を広げることが目的だけど、彼らの興味は言語学習そのものに向いていて、それをコミュニケーションツールとして使うかどうかは目的に含まれていないのではないか、と。
わざわざ「それがキッカケで語学を学び始めました」と主張する人の多くは、その集団の中で自分は他と違うことを始めたと表明することで自分の承認欲求を満たしたい、とか、アニメに出て来た元ネタや専門用語の翻訳にしか興味がないのではないか。
語学を習得して更にコミュニケーションの幅を広げたいと思う人達のように、文法や活用や日常会話の慣用句を覚えて、語学力を向上させたい、というのは目的ではないのだろう。

だが端から見ると「同じ言語を学習している」という状態だけは同じなので、話が通じたり、同じ悩みを抱えていたり、お互いの学習成果をやり取りすることでさらに研鑽できるような気がしてしまう。
そんな期待を抱いてやり取りしてみるも、実際のところ双方の目的は全く違うので、必要とする能力も違えば習得すべき技術も違い、何から何まで話が通じないし、お互いに身のあるやり取りは全然出来ないまま、徒労感だけを残して関係を解消するという流れに至ってしまう。

どっちが上下、どっちが正誤という話ではない。
目的が違うということは想像以上に手段も変わるということで、逆に目的が同じか、もしくはかなり近いものであったなら、学ぶ対象が違ってもお互いに利のある交流をすることが可能なのかもしれない。