メメント・モリじゃないけれど

自分がまだギリギリ20代だったころ、ちょうど自分より10才くらい上の世代の人達が当時しきりに「メメント・モリ」とか「ポイント・オブ・ノーリターン」みたいなことを口にしていたのをふと思い出す。当時はなんかスゲエなあ、やっぱ人生の先輩は大きな物を見てるんだなあくらいにしか思ってなかった。

それから10数年が経って、自分がいよいよその世代になったら、彼らが何故それをしきりに口にしていたのかがふいに降りてきた。彼らは学問を習得したからそれらを語っていたのではなく、実感する肌感覚として語っていたのだと。

今、まさに自分が感じているのもそんな感じ。ああ、僕はこの歳になって、人生における「ポイント・オブ・ノーリターン」を超えたんだと実感している。今までは足りなければ足せばいいし持ってないものは持てるようにすれば良かったんだけど、今からはもう既に足りていようがいまいが、既に持っている物だけで勝負して行かなければならない。そうしないと、人生の残り時間が足りなくなっちゃうから。
この「持ってる物で戦わなければならない」というのは、小説の「バトル・ロワイヤル」に於いて登場人物たちに最初に配られる武器に物凄く差がある、というのと似てる気もするが、この場合に於ける「武器」は抽選で決められるのではなく、自分がしてきた事の結果で、結果=自分の武器が、現在の世界に於いてショボいのか強いのかは分からないのだけど。

語学の学習や知見を広めることはいくつになっても出来るけど、自分の基礎を形作る価値観や経験値はもうあんまり変えたりはできない。それこそ20才そこそこの頃はバイクなんてどこ走っても発見ばっかで物凄く楽しくて経験値がジャンジャン稼げて、ただ走り回ってばっかりでも良かったんだけど、今から同じことをしても、「昔と同じように新しく発見する事」なんか殆どない。それは別に悲しいことではなくて、私はこの年齢で「日本国内でバイクに乗ってどっか行く」という刺激から得られる経験値はほぼ稼ぎ尽くしたということでもあって、つまり、私は若い頃のようにただ闇雲にバイクを乗り回していてはいけないということでもあるのだろうと。

40を超えた、という事自体にはあまりこだわりはなかったけど、人生の残り時間を計算してみたら案外もう残ってないじゃん、やりたいことはどんどんやっていかないと色々間に合わないじゃん、という焦りが出てくるタイミングでもある。例えばこれが50を超えた所だったら、もう焦ろうが頑張ろうが出来る事なんて知れてるし、もしそこから一山当てようとか思ってるなら、やり残してる事が多すぎな気がしないでもないけども、今ならまだちょっとくらい大それた事なら間に合うんじゃないだろうか、という気もする。

とまあそんな具合に、確定や不安や焦りや余裕が十把一絡げになって襲い掛かってくる瞬間が40超えた辺りなんだろうなと。
昔の人は40を不惑なんて言ったけど、それは15才で成人して、今よりもっと平均寿命も短かった社会に於けるポジションで、今だとその心境に達するのはだいたい55〜60位じゃないかなあというのは個人的な感想。

本当の意味で不惑の域に達するまでに、野望のあれこれを一つでも多く実現させておきたい所存。

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