「仕事=修行」説

キリスト教国における「仕事」は、人間の原罪に対する罰なので出来るだけ短く効率良く、労働者の負担を少なくすることに重きが置かれるが、逆に日本に於ける仕事は仏教的な意味での修行なので、労働者への負担はなるべく大きく、辛く、長い方が良いとされる。

キリスト教国では「賃金と労働のバランスが取れていない仕事はしないか、辞めて他に移るのが当たり前」なのに対し日本がそうでないのは、労使ともに「人生修業をする場を与えてもらっておきながら、さらに金や休みまで要求するとは強欲な奴」という認識がまかり通っているからで、そういう前提に於いて日本の労働者は、自分の職場環境がどれだけ悪いかを説明すればするほど、それは修行として非常に効果的と判断され、負担を取り除くことが更に難しくなる、のではないだろうか。

これが案外的外れな意見でもない、と手前味噌ながら思う根拠は、会社を辞めて自分の得意分野を武器に生きていこうとする人に対する侮蔑と嘲笑の多さ、これこそまさに「修行」からドロップアウトする落第者への態度そのものではないかと。また、仕事に於いて非効率な点を効率化し、労働時間短縮や人員の削減に貢献することが「サボった」と全く裏返しの評価を受ける場合があることも挙げたい。
現場サイドは、それをすることでより効率良く仕事を進める事が出来るようになるので良いことづくめだが、仕事を修行と思ってる側からすれば、せっかく成長出来る環境が揃ってるのに、そっからわざわざ修行時間や修行者を減らしてどうすんだ、ということであろうか。

同時に「自営業って自由に見えて案外大変なんですよ、会社員の人は週休二日ありますが僕らはそうじゃないですからね」という様に、道は違えたけど辛い修行は続いていますと宣言すると、途端に対応が柔らかくなる点なども「仕事=修行」説を裏付ける点と言えるのではないだろうか。

「仕事=修行」説」への2件のフィードバック

  1. しごとしたくねえよう(ぐるぐる目)
    若いころの苦労は買ってでもしろ、というアレがあるのもその辺かもしれません。
    個人的には人生で一番いい時な若い時分を苦労して過ごしてしまってどうするんだと
    考えるわけで。苦労したら苦労したでそれは無駄にはならないと思いますが、
    しないで済むなら苦労なんてものはしないに越したことは無いと思います。

    大学四年生の時に就職に関する診断アンケートのようなものがあって、診断結果が
    「あなたは仕事を報酬を得る手段として考える傾向があります」みたいなのが出て
    物凄い真顔になったのを思い出しました。

    人間的に成長するための「いろいろな経験」が「=苦労」になってしまっているんじゃないかと
    思うんですが、長い封建的な社会の中で出来上がってしまったのかしら。

  2. しごとをするのはやぶさかでないのですが、世の中モノ作り系界隈の住人を河原乞食扱いする人多すぎで泣きたくなります
    「今回の仕事で金銭的な対価は出せないけど、経歴の上ではプラスになるよ、宣伝にもなるし」
    こんな事言う人ってまだいるんで驚きと同時に諦めも入ります 勿論1ミリ秒でお断りですけど

    「若い頃に自分の見聞を広め、感性を豊かにし経験値がそのまま人生の糧になるようなことをしろよ」という意味で、昔の人はそういうことを総称して「苦労」と端的に言葉にしたんでしょうけど、今は文字面をそのまんまダイレクトに理解して「理不尽で不条理な世の中の苦痛を体験しろ」みたいになってますもんね

    若い人達が悪いオッサン達に利用されないことを祈るばかりです

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