ツイッターやめました。

止めた理由は大きく分けて3つ。

一番はやはり時間。TLを追うだけでもかなりの時間消費になってしまうし、その中から興味深いニュースを拾って深追いしたり、もらったレスに返信を付けたりしていると、あっという間に数時間経過してしまう。
多くの人が意識していないという意味では、ツイッター(にかぎらず連投系SNS全般は)かなり強烈な時間泥棒である。これに抗うにはTLを追うのを我慢する、週末だけの使用に限るなど色々あるだろうが、毎日毎時間、早朝から深夜まで各界のスペシャリストが興味深い投稿を繰り出してくるTLを見ない、というのは、私がそこに簡単にアクセス出来る以上、我慢するのはかなり難しい。

次に「対象を限定しない悪意」がこの所急に増えて、その悪意に意図せず巻き込まれる事が増えてきたこと。
私は始めた当初は特定の誰かとやり取りするか、単なる自分宛のメモ書きのどちらかでしかツイッターを使ってなかったのだけど、気が付いたらいつの間にか第三者の視線を意識して投稿するようになり、さらに全く赤の他人が割り込んで来て文句をいう/馬鹿にするという流れができるようになった。また実際にそういった経験が急に増えた。
鍵を付ける(公開しない設定にする)ことでそれは簡単に回避できるのだろうけど、でもそこまでして日常的にやり取りせねばならないことは果たしてどれだけあるだろうか。
親しい友人や知人とは別手段でも連絡を取ることができる。それならわざわざ迅速にメッセージをやり取りする手段はツイッターに限る必要はない。

最後に、これは一番理由としては小さいのだけど、止めた意味としては最も重いかもしれないとも思っていることで「具体的な行動は何もしていないけど、ツイッターで発言する事で何かした気になっている人」の及ぼす悪影響に本気で危機感を感じたから。

そういった人の存在は別に今に始まった訳ではなく、既に90年代後半の2ch全盛期にも存在が認められ、そうなることの危険性が指摘されていた。その時はどちらかというと「そうしてしまう自分」に危機感を持った人の自戒、という色が強かったのだが。

ただ文句を書き込んでいるだけなのに、本人の達成感はまるで世界の不正に切り込んで正した裁判官か、弱者を救った弁護士か、という程に高そうに見える。そして恐ろしい事にそういう人と何かやり取りするだけで「自分も何かを成し遂げた気」に囚われてしまい、いずれは本気でそう思うようになってしまう。そうなってしまったのだろうな、という人のやり取りを見ると、ある種強烈な魅力、今まさに目の前で凄いことが行われつつある、と錯覚してしまうことすらある。

何かを成すためには、自分の足で動いて、手を動かして、頭を使って実際の結果を出していく必要がある。そうすることでしか人は自分を変えていくことができない。しかしそれは世界の成り立ちの基本であり、有史以前の昔から、ネットで瞬時に地球の裏側と通信ができる今になっても、本質的には全く変わっていない。逆に、その大変で長い行程を経るからこそ、誰にでも簡単に得られるものではない「経験値」という形で自分に積み重なっていく。
その大変さを経ることなく、結果の満足度だけが同等に得られてしまうなら、多くの人がその苦労をせず満足度だけを得ようとするのは仕方がないのかもしれない。

自分が呟いたイカしたツイートを沢山リツイートしてもらう以外に、具体的な行動を伴うやりたいことがあるなら(例えば異性と付き合いたいとか、結婚したいとか、仕事で成功したいとか金持ちになりたいとか、とにかくなんでも)ツイッターやFB、その他SNSの中でも特に「自分の日常生活を晒すだけで何かを成し遂げた気になれてしまうよう物」を今すぐ止めて、それによって得られた時間を自分のためだけに使うべきだ。少なくとも私はそう思うようになった。

自分の日常や拾ったネタを紹介するだけで得られる賞賛、得られる快感はまやかしで、実際は人の夢を吸い尽くす麻薬でしかない。それを麻薬だと分かった上で適量使い続けるのも道だし、ズバッと切って終わらせるのも道。100%仕事の宣伝で使っているのならともかく、何も生み出さないものをひたすら使い続ける道は、いずれ行き止まりに突き当たる。そうなった時に後ろを振り返っても、もう戻る道はどこにもない。